奈良県南部の野迫川村のほぼ中央にそびえる荒神岳の山頂に鎮座する神社であり、正確な年代は不明であるが、西暦800年頃の創建であるとされている。誉田別命と火産霊神を祀っていることから、商売繁盛の神としてや火の神、かまどの神として崇められている。また、日本三荒神のひとつとしても知られていることや高野山の奥社などとされている。そのため、火に関わる職業の人や高野山参詣の人々を中心に、全国各地より信仰厚い人々が訪れている。
当神社の歴史を書いた『三宝大荒神略縁起』によると、この神社は弘法大師空海が高野山を開山する際に、伽藍繁昌密教守護のため板に三宝荒神を描いて古荒神の地に祀るとともに、壇上の鬼門にも荒神を勧請して高野山の大伽藍を建立したとされている。それゆえ、三宝荒神を祀るようになったのが始まりであり、その後は、高野山と結ぶ神仏習合の宮として、明治初年まで宝積院と称し、高野山地蔵院末と鐘楼堂を備えていたという。
日本の三大弁財天に数えられている天河大辨財天社の草創は飛鳥時代とされ、役行者が霊山大峰の開山に先立って、最高峰弥山の鎮守として祀られた。後に天武天皇の御英断により坪中天の故事に従い、現在地に社宇が建立された。更に弘仁年中、弘法大師の参籠も伝えられ、高野山の開山に先立って大師が大峯で修行されたが、修行中最大の行場が天河社であった。御祭神は市杵島姫命・熊野坐大神・吉野坐大神・南朝四代天皇の御霊・神代天之御中主神より百柱の神を祀る。
辨財天は、もともとは古代インドの聖なる川の神サラスヴァティー神であり「辨才天」と表記する。その本来の神徳は水と豊饒の神であり、日本の古代より行われてきた水神信仰とも結びつき、また水のせせらぎの素直で妙なる様から弁舌や音楽の神でもあった。後に転じて「財を弁ずる」商売の神としても信仰されるようになり「辨財天」と表記されるようになった。